踏みにじられたフィリピン

フィリピンの著名な歴史家コンスタンティーノ氏が先の太平洋戦争を次のように述べています。

「あの戦争は西洋の植民地帝国とアジアの植民地帝国の戦いであった。我々は不幸にもこの戦争に取り込まれ、飢え死にし、討伐の犠牲となり、国土を踏みにじられたのです。

2頭の巨象が戦い、地面の蟻が踏み潰されるようなものでした。

NHKの取材班に語っていました。


 日本軍主力の上陸の翌日マッカーサーは全軍をマニラ西方パターン半島に撤退させ、司令部をパターン半島の沖にあるコレヒドール島に移し、12月26日には首都マニラをオープンシティ(非武装都市)とする宣言を行った。翌年12日日本軍はマニラに侵攻するが、戦場はマニラではなくてパターン半島とコレヒドール島であることになる。

ケソン大統領は日本軍進駐を前に臨時閣議を開き、コレヒドールへ行く閣僚とマニラに留まる閣僚を振り分けた。

あるマニラに留まる閣僚がどの程度まで日本軍に協力したら良いかと尋ねた時ケソンは「どこまででもよい、兎に角最善を尽くして欲しい。フィリピン人の安全を、日本軍の残虐行為や憎しみから守るように・・・つらい仕事だろうがフィリピンの将来のためにもそれをやって欲しいとアメリカ公文書館の資料としてのこっている。

ケソンの命令でマニラに残った政治家たちは日本軍に協力せざるを得なかった。

国賊か、それとも国民を守るためあえて苦しい選択をしたのか、戦後フィリピンでは彼らに対する評価は揺れ、対日協力問題は長年タブー視されてきた。

フィリピン支配の目的は戦略拠点の確保にあり、現地人のための統治を目指した訳ではなかった。昭和171月日本軍はマニラ占領と同時に軍政をしいた。軍政とは戦争遂行を最優先に、軍自体が占領地の行政を取り仕切る事である。

そのためフィリピンに派遣された第14軍のなかに、軍政の執行機関「軍政監部」が置かれた。これを軍参謀長が兼任した。軍政監部の下にフィリピン人による行政府が置かれた。

ケソンがコレヒドールに行く際、マニラ市長として残るように指示した、ホルヘ・バルガスがその長官に任命された。

軍政監和知鷹(わちたかし)少将以下、軍政に当たった軍人や文官にとつてフィリピンは始めて就く国であった。
それまでの満州統治と同じように考えてこのような行政に全く無知な軍属を当てて占領統治を行ったことで多くの過ちを犯し、フィリピン人の協力を全く受けられず、以後の敗走にアメリカ軍と、フィリピン民兵に追われていくことになる。

 

大東亜共栄圏とは政治的、経済的に欧米から独立した自律的な共同体を形作るという、基本政策であったが、アジアの国々が日本を盟主とした同じ屋根の元で、一つの家族になると言う理念と言う事であるが、その精神の結び付きの中心には天皇が存在していたのだ。

この「大東亜共栄圏」というキャッチフレーズのもと南進を続け結局2000万人ともそれ以上ともいわれる犠牲者を生みだすことになるが、現地フィリピン人には全く理解不能で、受け入れられないものであった。

アメリカ統治でアメリカ政府は、1898年マッカーサーの父親、アーサー・マッカーサーを軍司令官としてフィリピンに派遣し、反米独立闘争を武力で弾圧、数十万人のゲリラを殺した。しかし、アメリカは軍政を民政に移行させ、ムチによる統治からアメによる統治へと方針を変えて行った。

穏健な支配と、アメリカがもたらした近代的ビル、ファッション、自動車、冷蔵庫、ハリウッド映画と言った西洋文明、そしてアジアでは有数の高い生活水準、アメリカはフィリピンに輝かしい未来を与えてくれると言う幻想を抱かせそれなりにうまくいったのだと思う。

しかし、「大東亜共栄圏」建設と言う日本の大義名分は、フィリピン人には受け入れられなかった。その一因は理念の曖昧さにあった。「大東亜の各国家及び各民族をしておのおのその所を得しむ」という東条英機首相の演説を果たして何人が理解できたであろうか。

だいたい「大東亜共栄圏」という言葉をタガログ語で何と言ったらよいかと言うと、非常に難しかったのではと思う。

 

さらにフィリピン人の愚民化と言う政策をとる事で益々共感を呼ぶことはなかった。

フィリピン国旗の掲揚は禁止され日の丸掲揚が強要され、日本語教育を強要され反日を煽るようになった。。

日本軍人は地元住民にどんな目で見られていたのだろうかと言う事で当時貿易会社に携わっていたダスタボ・イングレス氏が戦後フィリピン人はどんな目にあったか、また自らいかに過酷な体験をしたかを「メモリー・オブ・ペイン」という本にまとめてあり、その中で「日本人はフィリピン人に住民登録をして証明書を貰えと命令しました。登録に行くと、列に並ぶように言われました。並んでいると、別の日本人が来て、こんな所に並んじゃいかん、というのです。我々は訳が解らず動かずにいると、平手打ちをくらいました。日本人は英語やタガログ語が解らず、我々は日本語が解りませんでした。言葉が解らずきょとんとしていると敵意を持っているからだと受け取り、平手打ちにしたのです。殆どの人が登録もせず帰宅しました。全く馬鹿げた話です。」こんなひどい話もありました。「若いフィリピン人女性を見ると追いかけ、ある時など、女性たちをトラックに乗せて連れて行ったのです。それっきり彼女たちは行方不明でした。」

こんな仕打ちを受けて日本軍に好意を持てるはずはなく 日本軍はつまり、民間人の扱いを全く知らなかったのである。 

そして日本はフィリピンの農業を破壊をもしたのです。
アメリカ植民地時代フィリピンでは砂糖きびが最大の換金作物であった。

しかし、日本はこの砂糖きび畑を水牛で耕し、綿花の種を植える。ところがこの綿花は朝から晩まで薬を掛けないと虫害やられてしまう。そんな事をすれば経済的に引き合わない。その他日本の大豆を植えて味噌醤油を作るとして大量に耕作するが、同じような事で全滅した。
やっと農業はその国に従来合ったものでなくては育たない事に気が付くのだが、そんな事さえ知らなかったと言うのはお粗末の極みだろう。

戦後一部の人達が、東南アジア侵攻についてどんな正当?な理由を付けて日本軍の引き起こした戦争をアジア各国の独立を速めた。

と言っているのだが、全く独りよがりの考えで、侵略された側の苦しみを無視する馬鹿げた意見であると思う。

あとがき
満州国建国は日本陸軍の暴走、太平洋戦争は海軍の暴走で、これをを止められなかった当時の、マスメディア、学者、政党政治家、勿論私達一般国民も責任は重い。
昭和45年頃から日本海軍の中枢にいた人達が(水交会)これまで100回以上も集合し戦争の反省会を重ねている。12月7日NHKで「日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか」と言う番組が放送されました。

その中で真珠湾攻撃のその後の戦略と言うのは持っていなかったと言うのである。
官僚的軍令部の指導で第一委員会なるものの筋書きで始められ、それについては誰も責任の所在を追及されなかったというのは不思議な話で、戦後の官僚政治がこの悪しき伝統を受け継いでいるのではと思う。
何故日本人の手で戦争責任を追及し、裁かなかったのか今もってこれらの責任者は誰も語っていない。忌まわしい敗戦を語ると言うのは自らも裁きを受ける事になると言う事で大事な太平洋戦争史はぽっかり穴が開いたままである。