太平洋戦争のフィリピン戦記を検索していましたら、どうしてもこの大戦の最終章を語らずにはどんな戦線を
取り上げても全く意味のないものと気が付きました。
私は1948年10月の生まれで、なんというか、A級戦犯といわれた戦争指導者の絞首刑判決を受けた人達
が同じ1948年の12月23日(当時皇太子(現:天皇陛下)の誕生日)に処刑されました。
どうしても避けて通れないものとして極東軍事裁判(東京裁判)に触れないわけにはいけませんでした。
そしてその裁判資料を検索゜していく中で、あの神風特別攻撃隊の最初の出撃地であった、フィリピン、パン
パンガ州マパラカット山の近くで、ダニエル・ディソンさんという方が自宅で隊員たちの遺品を展示して公開
しています。ディソンさんは『我々は彼らの偉業を引き継いで語り継いで行かなければ....』という気持ちから
始めたそうです。更に『フィリピンは過去3度侵略され統治されてきました。スペインに300年、アメリカに50
年、日本に4年間。再び戻って正式に謝罪に来たのは1国だけでした。それが日本でした』
と答えてくれてい
ます。涙がこぼれました。うれしいですね。

最近我が掲示板で紹介してからは、(ちょっと自意識過剰です。)特に訪れる日本人が増えているようです。

このA級戦犯のほかB.C級戦犯も各地で逮捕されて処刑されています。
2009年9月12日に放映された「戦場のメロディー」ああモンテンルパの夜は更けてこちらの歌で戦後一世を
風靡したのですが、モンテンルパ捕虜収容所の囚人達が作詞、作曲したものですが彼らは幸いにもフィリピン
大統領によって特赦され帰国出来ました。





    

太平洋戦争の関連サイト


下記に太平洋戦争関連のサイトをリンクさせて頂きました。
戦争というのは後付けでどんな正当な理由を付けても許される物ではありません。原因は満州国建国と、朝鮮併合
ですが、どう説明されようと歴史上、戦略戦争であった事は否めないと思います。
もっと言えば当時の関東軍が上海などを阿片の巣窟にし、中国国民を無尽蔵の軍事費調達先として莫大な金銭を
稼ぎその一部が南方戦線の拡大の元となったのは後世の歴史が証明しています。語り継がれている丸福金貨等も
その一端でした。この60有余年たったのに未だにこの戦争を日本国民自身が究明していないという事が本当に
残念です。
この戦争を起こした張本人が誰なのか、そして戦線を拡大し続けたのが誰なのか、早期に戦争を終わらせなかった
のは誰なのか、知りたいものです。

裁判はどう進められたのか。
1946年(昭和21年)5月3日午前 東京・市谷台の旧陸軍省ビル。極東軍事裁判、いわゆる、東京裁判は、大講堂の
特設法廷で開廷した。東京裁判は、ドイツのニュルンベルク裁判と同様、敗戦国の指導者を裁く初のケースだ。入廷し
た被告は、病気の2人を除く東条英樹首相、広田弘毅元首相ら26人だった。
判事は、戦勝国のうち米、英、中、ソ、カナダ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、と戦勝への貢献でインド、
フィリピンを加えた計11カ国から各1名が任命され、オーストラリア代表のウェッブ判事が裁判長に選任されていた。

検察官はキーナン主席検察官をはじめ11人で、500人近くの国際検察局スタッフがいた。対する弁護側
は、鵜沢聡明、清瀬一郎ら主任弁護人と日米双方で50人を超す弁護人が開廷に望んだ。

どんな罪が問われたのか
ポツダム宣言を受諾し、45年9月2日に降伏調印した日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令
官マッカーサーは、日本の戦争指導者の逮捕を命令。同年暮れまでに100人を超す容疑者が逮捕された。
彼らは、「A級戦犯容疑者」と呼ばれ、捕虜を虐待するなどした「B C級戦犯容疑者」と区別された。

GHQ直属の国際検察局が、100人を超すA級戦犯容疑者から主要事件ごとに要職にあった者の中から複
数づつ選んだ被告28人の名前と起訴状を公表したのは開廷4日前の4月29日。

起訴状には「通例の戦争犯罪」に加え、新たな戦争犯罪概念が導入された。侵略戦争の計画や遂行の指導も
犯罪とする「平和に対する罪」、一般市民の虐殺や人種的迫害など非人道的行為を問う「人道に対する罪」だ。
ただし、「人道に対する罪」は最終的には適用されなかった。

審理対象となったのは1928年(昭和3年)1月1日から日本が降伏調印した、45年9月2日までの期間の、日本の
「侵略戦争」における被告の役割と行動だった。張作霖爆殺事件や、満州国建国日中戦争日独伊三国軍事同
盟などをへて太平洋戦争にいたるまで、いずれかの時点でどう関与したかが問われた。

ソ連との国境紛争である張鼓峰事件、ノモハン事件など解決済みのものまで含まれており、驚いた弁護側は、日本
が受諾したポツダム宣言が対象となる太平洋戦争に限るべきと主張したが退けられた。

だが28年以降の日本政府と軍の行動が審理の対象とされた事で、法廷では、日本国民が知らされていなかった
歴史の真相が次々と明るみに出される事となった。
「満州某重大事件」が実は関東軍による張作霖爆殺であ
ったこと、満州事変の発端となった柳条湖での満鉄線爆
破事件が中国軍によるものではなかったこと、真珠湾攻
撃ではアメリカへの開戦通告が遅れた事等がそれだ。い
まだに論争が続く日中戦争での「南京大虐殺」シンガ
ポールやマニラでの日本軍による残虐
な行為も明らかに
された。

多数決による判決は、48年11月に言い渡された。
被告28人のうち、大川周明は精神障害で免除され、松
岡洋右と永野修身は判決前に死亡、残る25人は全員
有罪
とと判定され、東条、広田、ら7人が絞首刑
木戸幸一ら16人が修身禁固、東郷茂徳が禁固20年、
重光葵が同7年を言い渡された。7人の処刑は皇太子の
誕生日(現天皇)である12月23日に行われた。
A級戦犯28人のうち東条ら絞首刑になった7人、東郷ら
受刑中に死去した5人、未決中に亡くなった松岡、永野
の計14人は、53年の法改正で「公務上の死亡と同視」することになった事などを理由に78年に靖国神社に合祀された。

問題点は無かったのか
弁護団副団長の清瀬は、46年5月13日、裁判管轄権に関する動議を行った。
それは@ポツダム宣言は戦争犯罪人を処罰するとしているのみで、当時の国際法を超越した「平和に対する罪」、「人
道に対する罪」で裁く権限は裁判所にないA侵略戦争は犯罪ではないB国家の戦争で個人責任は問われない
など。数日後、裁判長に却下されたが、裁判の正当性を真正面から批判したものだった。
東京裁判への批判でもうひとつ代表的なのは、「勝者による敗者の裁き」とする指摘だろう。勝者による戦争犯罪は
裁かれなかったからだ。

当時24歳の医学生だった作家山田風太郎は「戦中派焼け跡日記」に書いた。「戦勝国が戦敗国を裁くは公平にあらず
(中略)真珠湾は犯罪にして広島は犯罪にあらざるや」(5月14日)
判事11人は中立国からは一人も選ばれなかった。アメリカによる原爆投下も戦争犯罪ではないのかとするアメリカ人
弁護人の追及は却下された。ソ連が、終戦間際に日ソ中立条約を破棄して参戦、ポツダム宣言に反して戦後も多くの
日本人を抑留し、強制労働をさせている事実も関連性なしとして退けられた。

インドのパル判事が判決で「裁判は勝者による復讐だ」として被告全員を「無罪」とする少数意見を提出したのは有名だ。
更に被告は「平和に対する罪」「人道に対する罪」で起訴されたが、これは第二次大戦が終わってから考え出された法
(事後法)であり、時間を遡って被告等の罪を問うのは誤りと強い批判の声が出た。

Q裁かれなかったのは
「問題の多い裁判だったが、日本の戦争責任を考える意味では開かれて良かったと思う」と粟屋憲太郎・立教大教授
(日本近・現代史)はかたる。「しかし、重大なのは、裁判がいくつかの重要な問題を残して終わってしまったことだ」
ひとつは天皇の戦争責任という難問だ。国内的には、天皇は帝国憲法第三条などにより、その行為に一切の責任を
問われない。しかし、アメリカは開戦から間もない42年から、日本占領を円滑に進めるため天皇をどう扱うか検討し
ていた。

駐日大使を10年務めたグルーは、日本側行政の協力を得るには「天皇の権威を利用した方が1000倍も効果は
保証されよう」と指摘した。
昭和天皇はマッカーサーに「私は、全責任をとる。自分自身の運命は問題ではない」と語っていた。
オーストラリアは天皇も訴追すべきと主張したが、アメリカは、グルーらの意見をいれ、天皇の訴追を見送った。
アメリカは天皇を証人席に立たせぬよう働きかけ、東条ら被告たちも自分たちが有罪になれば、天皇の免責が確定
したと同じだと考えた。
裁判では主に日本の開戦責任が問われ、犠牲を少しでも少なくする為の停戦交渉時期をめぐる判断の誤りなど
日本国民が関心を持つ問題における責任は追及されなかった。
関東軍による細菌・毒ガス兵器の開発と実験についてもアメリカは、事実をつかみながら、審理の対象にしなか
った。

冷戦の進行で最新の軍事技術を入手するためだったとされる。
冷戦は48年になると、極東でも緊迫化した。米英の当局者は、A級戦犯裁判を打ち切る方針を固め、訴追されな
かった戦犯容疑者を釈放していく。被告たちへの慶賀同年12月に執行されると、翌日には最後まで残っていた
岸信介(東条内閣の商工相)ら戦犯容疑者17人も全員が不起訴で釈放された。

こうして東京裁判は1回限りで終わった。

元閣僚のの岸が起訴されなかった理由は、検察側が、東京裁判での閣僚への判決を見る限り、岸は無罪になる
可能性が高いと判断したためとする見方がある。
岸はその後、政界に復帰し、56年石橋湛山内閣の外相となり、病気辞任の石橋の後継として首相に就任。60年
日米安全保障条約改定を達成した。

ニュルンベルグ裁判では、46年10月、ゲーリングら被告22人に判決を言い渡され12人が絞首刑となった。
裁判はその後49年4月で計12回が継続してひらかれ、計177人の被告が裁かれた。

ドイツは49年に東西に分裂したが、その後も両国で裁判は続いた。ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)が問われた
ナチス戦犯に対する時効は停止され、現在に至っている。

日本では敗戦直後、幣原喜重郎元外相が主宰し、日本独自に戦争責任を解明する委員会がつくられようとしたが、
メンバーに元軍人が加わっていたために連合国によって禁止された経緯がある。国民の手による戦争責任の追及は
以後も行われることは無かった。

日本は51年、連合国と締結した平和条約第11条で、東京裁判等の「裁判を受諾」し、「刑を執行する」と約束した。
日本の「侵略戦争」を認定した東京裁判判決の内容に反発する人々は、「条約が受諾したのは刑だけ。内容まで
受諾していない」と主張。政府は「裁判という訳語は各国に承認されている。その意味は刑の言い渡しに限らない」
と弁明、現在も条約に異議はない。

Q罪と罰 適正だったか
  東条英機
東条が有罪とされた罪状は、満州事変以降一連の戦争「計画」への関与、米、英、蘭、仏、中の5カ
国に対する「侵略戦争」および、その間の捕虜、抑留者への虐待など戦争法規違反行為を指示した
ことの2点。
「侵略戦争」開戦の責任について、判決は、東条の「真珠湾攻撃は米の挑戦に直面して行われた
合法的な自衛
行動だった」との抗弁を「全く根拠がない」と一蹴。捕虜虐待では、1942年から43年
の泰面鉄道建設を例に東条が「働かざる捕虜食うべからず」の指令を繰り返し、栄養失調の英・蘭捕
虜に多くの犠牲を出した責任は重いとした。

東条の「自衛戦争」論に関しては、現在日中戦争はともかく、日米戦争について
は、一理あるとする見方も
一部にある。「アメリカが日本に最初の一発を撃たせそ
れによって国民を結束させ、世界大戦に参戦した
というのは、大筋でその通り」
(北岡伸一著「政党から軍部へ」)で、アメリカから石油禁輪政策を受けた日本が
苦し紛れにベトナム方面への侵攻をはかりアメリカと衝突したことは、その限りにお
いて日本の自衛措置で、不可避だったとする見方である。
だが、アメリカの挑発があったとはいえ日本が先に手を出したことについては、北岡(駐国連大使)は先の著書で国際政治
では、騙されるほうが悪いとしている。
東京裁判の法廷で東条が問われたのは、もっぱら開戦責任だった。

戦争指導上の誤りなど敗戦に関する責任は、独立回復後も国内で本格的に議論されたことはあまりない。
「天皇の官吏は結果について責任を問われない」という固定観念が、官僚の世界を中心に今なお強いことが一因と指摘
するのは、秦郁彦(日大講師)だ。首相であり戦争指導のトップでもある東条の行政責任の一つは、太平洋域での200万
戦没者の多くが戦闘ではなく飢えと病気で亡くなっている問題だ。42年から43年ガダルカナルでは、死者2万人中餓死と
戦病死の割合は推定7割を超える。補給が敵の攻撃で絶たれたのが一因だが、「だから仕方がない」ではすまない。
と秦は言う。

作戦面でも、44年東条内閣退陣の原因となったインパール作戦やサイパン島守護作戦の失敗などは、参謀本部の
当事者とは別に、参謀総長兼務の東条も結果責任が問われるべきと論じる軍事専門家もある。
東条自身は戦争責任について、法廷で、「私は特に責任がある」と述べており、これを昭和天皇をかばったとして評
価する声がある。しかし、裁判逃れのため一度は自殺を図っていることから必ずしも忠誠とは言えないとするもの、
「多くの犠牲者を出したことへの反省が足りない」などと批判的な見方が多い。
 
 広田弘毅
文民でただ一人、死刑となった広田の罪状は、一連の戦争「計画」への関与、1937年から38年南京
における残虐行為への関与。
広田は、36年2.26事件直後に後継首相を任されたが、軍部の圧力は強く、組閣人事の段階から介入
を受けた。

また、「軍部大臣現役武官制の復活」を認めたことで、内閣人事がそれ以後、常態的に軍部の言いな
りになる原因を作った。締結した日独防共協定も陸軍の意向を受けてのことだった。
37年近衛内閣の外相となったが、日中戦争勃発に際して積極的に事態収拾に動いておらず、同年
秋、ドイツから仲介申し出のあった対中和平工作を、軍部と近衛に同調して不調に終わらせてもいる。
東京裁判の検察尋問調書は、広田を「陸軍の圧力に屈し、侵略を黙認し、その結果を受け入れ、次の
侵略に弾みをつけた」と指弾した。判決は「広田はもし外交交渉で日本の要求が満たされるにいたらないときは、武力を行使することに終始賛成した」と断定、有罪とした。

死刑判断の最大の要因は、南京での事件との関係だったといわれる。事件当時の外相だったため、
中国が広田の処罰を強く要求。判決では、広田は事件の早期段階で情報を得て陸軍省に注意を促したが、その後続報を
受けたにも拘わらず、早急に具体的措置を取らず、自己の業務を怠った不作為があったとし、「犯罪的な過失」と認定された。
広田は当初から極刑を覚悟していた。事前の検察尋問で、「私が何かをしていたのなら刑罰を受けなければならない
自分の刑罰を軽くするために説明するのはごめんこうむる」と述べた。法廷での弁明も一切しなかった。
開廷後しばらくして、夫人が自殺、主任弁護士が法廷侮辱で退廷させられ弁護に支障が出るなど不運も重なった。

 武藤章 
陸軍中将で被告の中では52歳と2番目の若さだった武藤が、死刑判決を受けた理由は、陸軍省の
事務局長というポストを通じて、日米開戦のかじを取った責任を問われたからだ。研究者の間でも、
土肥原賢二、板垣征四郎らと並び、武藤の責任の重さを指摘する見方はおおい。
また武藤は日中戦争の発端となった盧溝橋事件が起きた時、大佐で参謀本部作戦課長だった。
武藤は、直属の上司である石原莞爾部長の戦線不拡大方針に対し、拡大を強行に主張して激しく
対立。日本軍を泥沼の戦争に追いやる端緒作った一人でもあった。






 松井石根

松井は、いまだに犠牲者の数で論争の絶えない「南京大虐殺」の際、中支那方面軍司令官として
現場にいながら指揮官として事件を防止しなかった不作為の責任を問うひとつの罪状だけで死刑となった。

松井自身は事件を知っていたとされ、巣鴨プリズンの教戒師に「折角皇威を輝かしたのに、兵の暴
行によって一挙にそれを落としてしまった」と悔やむ言葉を残している。
連合国は南京事件の責任追及に厳しく臨んでおり、多くの人が刑の言い渡しの前から松井の極刑を
予想していた。
重光葵は、獄中日記で「法廷における松井の運命はすでに明なり」と記している。





 島田繁太郎ら海軍の責任
死刑判決を受けた被告7人のうち、外務官僚出身で首相経験者であった広田弘毅を除く全員が陸軍
軍人だった。
修身禁固刑を受けた陸軍軍人は、9人を数えたが、海軍は島田と岡敬純の2人だけだった。
「開戦に反対したが力が及ばなかった」と主張する海軍に責任は無かったか。
対米英戦争の原因となった3国同盟の締結に米内光政、山本五十六ら海軍軍人が反対したのは事実だ。
しかし、海軍出身者で青山学院大学教授だった池田清は、著書「海軍と日本」で政治家としての米内の
責任を鋭く指摘している。米内は、日中関係を決定的な対立に追い込んだ38年「近衛声明」に安直に
同意し、交渉継続を主張する参謀本部の進言を押さえ込んだとした。
ナチス・ドイツが欧州を席巻すると、海軍軍指令、軍務局の若手には「バスに乗り遅れるな」式の親独
派が急増。
及川古志郎海相は周囲には「日米開戦は愚の骨頂」と漏らしながら、戦争反対を近衛首相に進言せず、
「和戦は総理に一任」とげたを預けてしまった。そのため海軍の開戦反対を期待していた近衛首相は進退窮まり、内閣総辞職に至った。
内大臣だった木戸幸一は海軍から死刑が出なかったことに対し「ちょっとおかしい。海軍が助かるわけがない」と
振り返った。日暮吉延・鹿児島大教授(政治学)は、島田と岡が極刑をまぬかれたのは、「残虐行為の訴因が認定
されなかったからである」と「東京裁判の国際関係」に書いている。

 重光葵
政府中枢にあった被告の中でただ一人「侵略戦争計画の関与」に関して無罪とされた。
ただ、戦争遂行に「主要な役割を演じた」とされ、捕虜虐待問題でも「閣僚として捕虜の福祉に全般的
な責任を負っていたにも拘わらず、調査させる十分な措置をとらなかった」「改善に必要なら辞職も考
慮すべきだった」と認定されて有罪となった。
重光は43年の東条改造内閣から約2年間、外相を務めた。
戦時中盤の外相と言えば外遊もままならない、閑職。重光が判決の言う「主要な役割」を演じるのは
困難だった。
判決は「戦時内閣に加入」したこと自体を違法な戦争への加担と決め付けたもので、事実がどうであ
れ有罪という「勝者の裁き」を象徴するものだった。入閣自体を有罪の根拠とされたのは、蔵相の賀
屋興宣も同じだった。

これについては少数意見を書いたレーリング判事(オランダ)が「戦時内閣に参加すること自体を有罪
とするのは間違いだ。平和を実現しようとする人の人格まで阻むことになる」と判決を批判したことが
知られている。
そもそも重光が起訴されたのは、開廷直前に到着したソ連代表団の要求による。
罪状は38年張鼓峰事件、39年ノモンハン事件の停戦交渉を駐ソ大使の重光が担当したというだけ
のもので、すでに両国で決着済みの事件を蒸し返す荒っぽい要求だった。結局、判決前にソ連要求
の訴因は却下された。

判決から半年後、英紙にソ連の要求がなければ重光の起訴、有罪はなかったとの記事が載った。
海外からの多数の減刑嘆願が効いて、50年秋、収監2年で保釈された重光は、鳩山内閣の外相として56年日ソ共同宣言を
まとめ、次いで日本の国連復帰に立ち会ってまもなく死去した。

 木戸幸一
明治の元勲、木戸孝允の孫である木戸は、40年から45年に内大臣として昭和天皇の主要な助言者を
務めることで絶大な権力を振るった。第3次近衛内閣が倒れると、主戦派の代表と見られた、東条を後
継首相に推挙した。
検察側は、木戸が天皇をミスリードしたとして、東条ではなく木戸を被告の中でも最多の訴因で告発して
いた。
後継首相は昭和に入ってからは天皇を補佐する重臣グループの最長老で唯一の元老、西園寺公望が
決め、政党内閣時代を作りあげるなどしたが、32年の5.15事件後は重臣たちとの協議を重んじるように
なった。
西園寺は満蒙領有を目指す軍部の独走を天皇とともに憂慮し、陸相を叱責するなどしたが、軍部の政治
への進出を阻むことは出来なかった。
重光は木戸について、「軍閥の台頭期に、西園寺公の考え方を古きに過ぐと評し(中略)軍閥に追随したのは
近衛木戸公爵等のグループであった」と厳しい見方をしている。
だが木戸は、検察側に証拠として、「木戸日記」を提出して自分が戦争回避と和平に努め、いかに軍部に反対し
たかを徹底して主張した。日暮教授は、木戸の態度について「陛下の代理として天皇と国家に献身する使命感
によるものと考えられる」とした。

 松岡洋右
第二次近衛内閣の外相だった松岡は、開廷の翌月に東大病院で病死したため免訴となった。
生きていればアメリカを仮想敵とした日独伊3国同盟締結の主導者として有罪なったことは間違いな
い。
3国同盟には当初、昭和天皇、外務省英米派が反対したが、陸軍と松岡それぞれの誤った思い込み
と、近衛の支持で締結された。
陸軍は当時破竹の勢いで西ヨーロッパを席巻していたドイツ軍事力の将来を過大視した。松岡も
「強く出ればアメリカは退く」ものと読み誤った。松岡の秘書官だった加瀬俊一(元国連大使)の生前の
証言だ。
「3国同盟があればその軍事力を前にアメリカは日本に譲歩し対中支援も控える」と読んで締結に
突き進んだという。
松岡は41年、独ソ開戦も読み違えたことがきっかけで日米開戦を前に失脚するが、日米衝突を決定
的にした南部仏印進駐には反対していた。戦争中、松岡は、3国同盟締結が間違いだったことを認め
たという。



Q訴追の範囲何処まで
東京裁判では罪を問われなかったものの、その可能性があった人物としては、近衛文麿(元首相)、石原莞爾
(元関東軍参謀)、石井四郎(元関東軍七三一部隊長らがいる。


               戦後60年 問いただすべきもの

その時々の日本国総理の靖国神社参拝問題で焦点となっているA級戦犯を中心に、先の対戦中、戦争を遂行する立場にあった
人達の戦争責任について検証した。
それにしても重要なのは連合国によって取り仕切られたがために東京裁判が帯びる「勝者の裁き」の色合いの
濃さといった問題とは別に、本来、日本が自ら問いただすべき戦争責任の多くが、取り残されたままでいる、という
現実だ。我々が今後更に突き詰めたい問題としては、@日米衝突の必然性が本当にあったのかどうか、そこに至る
まで軍部・軍人達の専横をとめられなかった責任は何処にあったか。A基本的生産力から見ても中長期的に勝つ
見込みの全くなかった対米戦に踏み込んだ指導者達の責任をどうみるか。B無意味な犠牲を少なくする行政努力
や終戦工作が適時適切に行われていたのか。C見通しもなく終戦の先延ばしや妨害をした指導者達はいなかった
のか、いたとすればその責任をどう問うべきなのか。
以上の4点が挙げられよう。

東京裁判以前、国際的な戦争責任は法的には、国家が負うもので、個人は責任を追及されないものとされていた。
このため日本側弁護人も、裁判冒頭、この点を争ったが却下された。以来、国際法の世界では、個人も戦争責任を
追求されることが定着した。
東京裁判の際、開廷に先立って日本独自に戦争責任を追及する戦犯裁判の試みがあるにはあったが真剣に検討
されたとは言えず、その後も表立った動きはみられなかった。
時代は、変化を求めている。「歴史は60年で固まる」(中西輝政・京大教授)とも言われるように、戦後60年のいま
先の大戦をもわだかまりなく振り返ることが出来る時期だ。戦争責任は、怨念、不満のはけ口としてのみとらえるの
では十分ではない。 

2005年7月15日読売新聞13面

基礎からわかる東京裁判

戦後60年を過ぎあの極東軍事裁判(東京裁判)は忌まわしき大戦の果たして総括であったのかを検証して見たいと思う。戦争に主要に関与した人達は今は殆どいなくなり、昭和以降生まれの時代となっているが戦争を体験していない世代の人に特に読んで記憶にとどめて、後世の子孫に対して語り継いでい行ってもらいたいと思う

Q何が裁かれたのか

東京裁判の舞台になった旧陸軍省ビル

東京裁判関連リンク

東京裁判によるでっち上げ

憂国.喝

sub東京裁判

軍事裁判

A級戦犯の罪状と判決

アジア太平洋戦争とフィリピン

フィリピンの戦い
フィリピン戦線 ルソン島の決戦
我が子への遺書
高校生が見た特攻
フィリピン 刻まれた記憶
帰らざる翼
小野田寛郎の30年戦争
神風特攻隊と敷島隊
神風特攻隊はフィリピンでは英雄だった
独立混成 第五旅団
戦艦武蔵最後の地獄絵図
旧日本軍に関する研究
太平洋戦争の真実
太平洋戦争地図 略年表
大日本帝国陸海軍資料館
神風特攻隊〜大空へ散った若き魂への鎮魂歌ビデオ
神風特攻の動画
太平洋戦争での日本軍 軍票
太平洋戦争史
太平洋戦争全史
被 告 名 と 肩 書 き 判 決 の 理 由 の 主 な 骨 子 判    決
東条英機   首相 陸軍大将 近隣諸国に対する攻撃について主要な責任 1948.12.23 絞首刑
広田弘毅     首相 外相 外相として対中戦争遂行に関与 1948.12.23 絞首刑
土肥原賢二    陸軍大将 満州事変の責任 1948.12.23 絞首刑
板垣征四郎    陸軍大将 満州事変を引き起こすことに協力 1948.12.23 絞首刑
木村兵太郎     陸軍大将 泰面鉄道の建設における捕虜使用 1948.12.23 絞首刑
松井石根      陸軍大将 南京市民の保護義務を怠った 1948.12.23 絞首刑
武藤章       陸軍中将 フィリピン山下泰文の参謀総長 1948.12.23 絞首刑
荒木貞夫      陸軍大将 中国領土占領 終身禁固刑55年仮釈放
橋本欣五郎    陸軍大佐 民主主義者を弾圧 終身禁固刑
畑俊六       陸軍元帥 侵略計画の立案と実行 終身禁固刑
平沼騏一郎    首相 枢密院議長 重臣会議で最後まで戦うと主張 終身禁固刑
星野直樹      内閣書記官長 東条内閣の書記官として戦争計画の立案 終身禁固刑
賀屋興宣      蔵相 対中対米戦準備遂行に積極的に関与 終身禁固刑
木戸幸一      内大臣 昭和天皇の主要な進言者を務めた 終身禁固刑
小磯国昭      陸軍大将 首相 関東軍参謀長として満州国諸計画を作成 終身禁固刑
南次郎       陸軍大将 満州征服 終身禁固刑
岡孝純       陸軍大将 対中対米戦争遂行 終身禁固刑
大島浩       陸軍中将 ドイツとの軍事同盟に積極的関与 終身禁固刑
佐藤賢了      陸軍中将 陸軍幹部として対中戦を積極的に遂行 終身禁固刑
重光葵       外相 太平洋戦争遂行に主要な役割 終身禁固刑
島田繁太郎    海軍大将 戦争遂行に主要な役割 終身禁固刑
白鳥敏夫      駐イタリア大使 日独防共協定に関与 終身禁固刑
鈴木貞一      陸軍中将 戦争開始遂行のための会議の方針を支持 終身禁固刑
東郷茂徳      外相 太平洋戦争の計画と準備に参画 禁固20年
梅津美治郎    陸軍大将 満州経済を日本に役立つよう指導 終身禁固刑
判決前に死亡
松岡洋右      外相 裁判中の46年病死
永野修身      海軍元帥 裁判中47年に病死
精神障害で免除
大川周明      国家主義運動家 精神障害で審理除外