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マニラミッドタウンホテルというより当時現地の人達は、一昔前の名称『ラマダホテル』と呼んでいました。
下の地図にあるロビンソンデパートは今の3分の1しかなくて、この『ラマダホテル』の駐車場となっていました。
マニラにあるホテルの中では何と言っても敷地面積はダントツに広く駐車場には何百台もの車が停められていました。
前庭に車寄せが有り、エントランスにガードマンとドアーマンが立っていて、私の顔を見つけるとにこにこしながら寄ってきて挨拶してくれます。
中に入ると広いロビーがあって、滝の水音が聞こえ、コーヒーショップからはピアノの生演奏が聞こえて来ます。ピアノを弾いている演奏家が私の顔を見つけると、私の大好きな「ゴッドファーザー」の主題曲を弾き始めます。
私がコーヒーショップのシートに座ると、バーテンダーが私の大好きな「グリーンマンゴシェイク」を直接持ってきてくれます。
全て阿吽の呼吸とでもいいますか、そんな温かい親切なスタッフばかりで滞在する度にリラックス出来る良いホテルでした。
私は1981年が初渡比なのですが、10回目の渡比位でこの『ラマダホテル』に出会い、以来80回以上、述べ560日ほど宿泊したホテルで、この2002年に閉鎖し暫くそのままでしたが2004年解体されてしまいました。なんとも残念で仕方ありません。

私が独身時代の楽しいウキウキする時を経て、フィリピン人と結婚、娘が生まれそんな我が家の渡比の歴史がたっぷりと詰まった思い出のホテルでした。
15回目位のチェックアウトをしてていると、ホテルのゼネラルマネージャーが私達家族にファミリーカードを作ってくれ、次回からこのカードを提示して貰えば一泊800ペソで泊まれます。その他色んな特典が付いた便利なカードを貰いました。予約無しでも何時でもチェックインが出来るものでした。普通に宿泊すると65ドルだったので約半額で泊まれました。しかも特別にセミスゥィートルームをいつも提供して貰い、スタッフ達には感謝しています。私達がチェックインのために入り口を入ると顔馴染みのスタッフから必ず『WelCome Back』(お帰り)と言われます。本当に自分の家に戻ったような気分になったものでした。
そして、26数年来の我が家のガイド兼ドライバー兼ガードマンとこのホテルの1階のコーヒーショップ『サボガン』のコーナーのシートに座ってコーヒーを飲みながら何時間でも過ごす事が出来ました。2人で日本人や、外国人を眺めながら過ごすのが好きでいつまでも座って時を過ごしたあの日がとても懐かしく思い出され、アルバムを見るたびに胸が締め付けられる寂しさを感じるこの頃です。
2001年このガイドも脳梗塞から右半身が麻痺し、更に持病の糖尿病から2003年引退し、生まれ故郷のビコール、レガスピに帰ってしまいましたが2007年3月に永眠してしまいした。
このガイドは初のマニラ旅行の時にひょんな事から知り合い、以後26年お世話になった人物で、お金をごまかしたり、要求したりは一切ありませんでした。家族ぐるみの付き合いで自宅にも毎回招待され食事をご馳走になる様な間柄でした、
高血圧で糖尿病が持病でしたので、いつも気をつけるようにといっていたのですが60歳代でまだまだ若いのに見た感じ、75歳位に見え、体重も90`程だったのが最後は60`となっていました
チャイニーズ系の顔をしていて、私がどちらかと言えば南国系なので、日本レストランに入ると、私にタガログのメニュー、彼に日本語のメニューが毎回渡されるので面倒なので、お互いになり切ってオーダーしていました。
この『ラマダホテル』では娘も生後6ヶ月目から泊まっていて、2歳位にはホテル中を子供の三輪車で走り回って遊んでいても誰にも文句は言われず、娘もエレベーターで間違ったフロアーに下りても直ぐに電話で教えてくれ、あんたの子供は○○階にいると知れらせてくれとても安心できるホテルでした。
娘の誕生日には2階にあるレセプションルーム(宴会場)でパーティーを特別料金でやってくれたり、サービスでビデオカメラマンをつけてくれたり、大きなケーキを作ってくれたりと色んな便宜を図ってくれました。
かみさんとの結婚式もここでやろうと予約したのでしたが、かみさんとひょんな事から喧嘩してしまい中止をしてしまいましたが今でもかみさんは悔しがっております。
私も痛恨の極みで悪い事をしたと今でも思っています。
このほど私達のふるさとみたいな『ラマダホテル』が消えるというのは思い出も消えてしまうかのような不思議な気持ちで、寂しさでいっぱいです。
跡地ですが、ロビンソンによって高層分譲マンション3棟が建っています。
私達家族にはいつまで心に仕舞って置きたいと思います。
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